昭和五十四年十二月二日 朝の御理解

 御理解第九十六節 「世の人があれこれと神のことを口端にかけるのも、神のひれいじゃ。人の口には戸が閉てられぬ。先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかるようなことを言うても、腹を立てな。神が顔を洗うてやる。」


 信心をさして頂いて修行はつきものですから、それが人からとやこう言われたり笑われたり悪口を言われたりするような時に、この御理解を頂くとかえってね、御徳の受けられる、はあこれが修行だな、とわかってくるようになると有難い、ね。神が顔を洗うてやる、とおっしゃるのは、もう御徳の世界です、ね。ですから、みんな御徳を受けたい、ね。
 それには例えば、人が何と言おうが、それこそ人の口には戸はたてられん。いやむしろ神の比礼じゃ、とおっしゃるのですから、ね。ここがわかると神様の比礼だから、いやこれはどんなおかげを頂くやらわからん。どんな御比礼に浴する事が出来るやわからん。心が、いうならば楽しうなってくる、有難うなってくる、ね。そういう生き方が身につく時に、神様が顔は神が洗うてやるとおっしゃるような、御徳の世界に住む事が出来るんです。
 『今日は、私はどこを頂くか、と思うたら「御理解」というところを頂いた。御理解の「御」という字を頂いた。御という字は彳偏に卸という字が書いてあるでしょう。彳偏に卸小売の卸が書いてある。だから小売りをおかげを頂く修行。成程いろいろな修行があります。神様の前に地団太踏んで願うようなね。さあ断食をします、水を被ります、と言うて神様から頂く。それは何処までもおかげの行です、ね。
 御徳を受ける行、いうならば卸の行とおっしゃるのだから、ま、これはだから御徳を受ける修行だ、というふうに私は感じました。それでまた二度目の、ならどこの御理解を頂こうか、と思うて開かせて頂きましたら、ま、この九十六節でした。ね。その九十六節にはです。
 世の人があれこれと、ね。神の事を口端にかける、ね。どんなに、いわば金光様の信心しよってけれども、といったような事を聞くような事があったり、いちいち言いわけをしたり腹を立てたり情ながりしたんでは、いつ迄たっても神様は顔を洗うて下さらない、いやかえってそれが神の比礼じゃから、それを信じなきゃいけない。神の比礼じゃから。はぁ神様がこのようにして生き生きと働いておって下さるんだ。
 しかもそれは、ね。神が顔を洗うてやる、とおっしゃるほどしの御徳の世界に住む事なんだ、とわかる時に、悪口が大きければ大きいだけ、はぁこれはいよいよおかげ受けるな、御徳受けるな、と。もっともっとおかげが受けられるぞ、という心に楽しみも喜びも頂けるわけですから、其処までやはり、何と申しますかね、達観というですかね、達観しなければいけません。』
 『今日の御神前で、私共が子供のとき竹トンボを飛ばしましたよね。「その竹トンボのひとっつも少しばっかりしか削っとらんとを上げよるけれども、ひとつも上がらんけん、手でこうして押し上げよるけど、ストッとすぐ落ちるようなとこ」を頂いた、ね。
 竹トンボというのは、皆さんも御承知のように、ね。それこそ飛行機の、昔のあのプロペラのように裏表から削る。それを薄く削って、その柄をつけて、するとこうせんでもいいでしょうが、手を上げんでも。只ここで合掌した手を、こうやってひねりさえすりゃ、一人でにブーンと上に上がるんです。信心もそうです。』
 『次に頂いたのは、「大変酒好きの人らしいのです。喉も乾きよるらしい。そこにビールがあるもんですから、ビールを飲もうと思うてビール瓶をこうこうやって舐めよんなさるところ」を頂いたです。お互いの信心がね。そういうまあ形で言うたら、そういうような削りもせんで上がりますように、栓抜きも使わんで、どうぞその、それこそビールを舐め回しとるような、おかげおかげの、いうなら醜態を演じておるような事はないでしょうか、ね。
 だからまずは栓抜きを頂く事が先決なんです。ね。それにそこに目の前にビールがあるもんだから、ね。それがいうならば栓を開ける事をせずに舐め回して、そういう二つの御心眼を頂いて、この教典では御の字を頂いた。そこで卸に行という字ですから、彳偏に卸と書いてあるから、ははあ卸、小売。小売をおかげの世界というならば卸の世界を御徳の世界というふうに感じて、そしてまた頂いたら、今の九十六節です。ね。
 信心をさして頂いて神様が段々、それこそ開けて見れば愛というように体験に体験を積んで、どんな場合であってもおすがりさえして行きよれば、おかげが受けられる。』人が、あゝいう悪口を言うてるけども、なあんも知らんから言っているのであって、ね。まあだ、あゝいう悪口を段々、私の耳に入ってくる事は、もっともっと神様は徳を受けさせようとなさっておられるんだなあ、と思うたら有難い、御礼言わにゃおれない。達観です、ね。問題にしない。いうなら大人と子供のようなもの。子供が大人にむかって馬鹿と言うても腹立ちません。こちらが大人になって行きよるなら。それこそ腹の立つだんじゃないわけです。
 『昨日高松和子先生が、今朝からお夢を頂いた、という。どんなお夢でしたか、ち。おもしろいお夢で、一心茶屋という茶屋がある。一心とは神に一心という。茶屋は茶屋の茶屋ですね。いうなら昔はよく峠の茶屋というのがありました。旗が、お休み処の旗が立っていて、そこに、ま、団子とか出てましょう。それに一心茶屋というのがあって、看板が立っておるのがね、太助餅という看板が上がっとる。
 そしてまたこっちの方には利助饅頭という看板が上がっておるというお夢を頂いた、ち。素晴らしいお夢頂いたねぇ、と。お互いこうやって、お道の教師としてお取立頂いて、まあ行く行くは教会を持たして頂かなきゃならんが、ね。どうでも一心茶屋のおかげを頂かなければいけんばい。二心も三心もあったんじゃおかげにならん、ね。お取次をさせて頂く先生が、信者の顔色ばっかり見たりような事は絶対おかげにならん。
 そして神様を拝んだっちゃおかげにならん。もう神様の方だけ見ときゃえぇ、ね。これが一心茶屋です、ね。』いうならば神情。昨日のお月次祭に申しましたように、いわゆる人情教と神情教、ね。人情の手篤い親切なごたるけれども、信心でいう親切はそんなもんじゃない。御大祭なんかがあると、もうお供えもほとんど信者に下げなさる。
 教会というところは、ま、こんなもんだ、と言われる教会がある。そういう教会は御比礼が立たんですね。いかにも人情でこう、ね。親切のごたるでしょう。例えばここに、なら信者の中に喉が乾いてたまらん、と言うておろたえまわって水を飲ませるような教会ではおかげ頂かんです。水が欲しい、お金が欲しい、食べ物が欲しい、というのに、んなら先生がそれを取り次いでやる、という事なんです。
 だから神情一本で神様に向っときゃいい、と神様がいうならばおかげを下さる。ね。もうとにかく神様一心です。それが一心茶屋、ね。お互いの道の疲れ、いうならば長い旅路というふうに申します。一生の旅をする、ね。もう本当に疲れてヘトヘト、もうここらあたりに茶屋の一つもないか、と思うところに茶屋があった、ね。そこでいうならば、ね。太助団子とか、ね。利助饅頭を、いうならば呼ばれて、そこでまた一息ついて、また次の旅を続けて行く事が出来るような教会でなからなきゃいけない、ね。
 一つ太助餅というのはね、太く助ける、ね。餅というのは心もち。いうなら人間の心を助ける事の出来れる御徳を受けなきゃいけん。利助饅頭というのは万の寿。利助というのは利益の利、ね。いうならばおかげの、おかげを授ける。心が助かる、おかげを授ける。この二つが足ろうた御徳を受けなきゃいけません。ならこれは取次をさせて頂く教師だけの事ではありません。
 例えば特別に、なら一心茶屋というような教会を持たせて頂いて、ね。助け餅が分けてあげられる、いうなら利助饅頭を、ね。さあ、あの茶屋で饅頭食べよう、お餅も頂こうと思うて来たら、もうてんで、そのお餅は、もう食べられんごとカチカチしとる、カビだらけ。あそこでいっちょ饅頭食べようと思いよったら、もうゴッゴッで食べられない、というような饅頭どん売っとったっちゃいけん。そこんところを日に日に新と、三代金光様はおっしゃっておられた、ね。日に日に新に餅もついとかにゃでけん、いうなら饅頭も作っとかなでけん。
 そういう、いうならば心の中に、ね。豊かな、ゆとりのある安心喜びを持合せておらなければ人は助からん。これはお互いでも同じです、ね。そりゃ、も、先生だけの事じゃありません。その為にはです、今日皆さんに聞いて頂いたような、もう信者で御徳を受けんでんよか、と思わずにね、もうそれこそ、ね。御徳を受けられた方の話を聞いた。
 御徳を受けておられる信心を聞かしてもろうたら、ね。それをやっぱりやってのけるだけの意欲というか求道心というかなからなければ、本当の御徳には触れられません。聞いて耳が肥えたり言うだけではいけません。自分の、いうなら心持ちの中に、もうそれこそフワフワするような、ね、太く助けられる心持ちをいつも頂いておきたい。
 それこそおかげを取次がせて頂けれる、おかげを分けてあげれる利助饅頭がいつも、ね、出来たてのようなお饅頭を売らせて頂けれる信心を頂きたい。いわゆる御徳を受けたい、という事。ならその御徳を受ける、という事はです。やはり小売りの信心じゃつまらん、ね。やはり卸売りの信心をさせてもろうて、その信心とは、例えば人が悪口を言おうが、例えば難儀があってもです、ね。その難儀を前にして、はあこの難儀を頂き抜いたら神様がどういう力を下さろうとしてあるのであろうか、と、にこっと笑われるような信心を頂きたい。
 人が悪口を言うておってもです。あゝこれはまだ自分はいよいよ徳を受けられる。あんまり人からあっちは立派立派と言うて誉められる時には、もうおしまい。ちっとは悪口の一つも言われるごたるようでなからなきゃ。例えば財産でも伸びないと言われとる。はああっちの旦那さんはとても仏様のごたっ人、と言われるようになったら、もうそこの財産なおしまい。
 とてもあそこの分限者は分限者のくせに、もうケチなケチなと言うて言われる位な時なら、まあだその分限者は限りなく伸びていく時だ、と、ま、一般では申します。信心も同じこと、ね。そこにはやはり、ね、いわゆる御徳を受けさして頂きたい、という願いをね、心にもっておると御徳を受けるチャンスというものが、それを、いうならば本当にチャンスとして頂き受けていく事が出来る。まともにその難儀と四つに取り組む事が出来る、ね。
 どうでも一つ、ここでは、ま、私は思うんですけども、合楽は一心茶屋だと思います。ね。私は皆さんの顔色ばかり見とらん。もうそりゃ総代さんをこうやっておだてんならんごたる事は一遍もした事なかもん。あんたどんおらんならおらんでよか、とこう思うとるもん、ね。ただ神様一心におすがりさせて頂いとるだけ、ね。だからここで私の話を聞いて、なら心が救われた、助かった、というのは、いうならば、ね。
 助け餅を与えた事になるのじゃないでしょうか、ね。信心な出けんけどもわからんけれども、さあもう、というような火急な願いなどもです。おかげを頂くのは、ね、いうなら利助饅頭が、ここではいつも用意してあるからではないでしょうか。と言うてなら皆さんがです、ね。その簡単に、その饅頭やら万寿やらをです、じゃなくてから、ね。頂くだけの信心から一つ卸売りを目指さしてもらう。いうなら卸の信心を目指さして頂いて、ね。
 頼まんでも願わんでも神様が下さるような御徳の世界に住みたい、ね。この九十六節はそういう御徳の受けられるチャンス。神が顔を洗うてやる、と仰せられるほどしのおかげの世界。いうならば御徳の世界に、住みたいならば、ね。人がちょっと言うたからと言うて腹立てたり、ね。赤面弁慶になって言いわけをするような事では、おかげの世界に住めても御徳の世界には住めません。それを合楽では、ね、天地日月の心に照らして、いうなら黙って治める、といったようなふうに説かれるわけですよね。どうぞ